ラジオからもれた 『 ・・・かかりつけの お医者に・・・ 』 ふと耳に残った。
幼い頃住んでいたすぐ近くの内科を思い出すのに、 時間はかからなかった。
なにしろ、幼稚園から高校生を卒業するまで 診てもらっていたのだから。
いつもニコニコと 口調のおっとりした優しい先生でした。
風邪、腹痛、発熱、湿疹、嘔吐などは、内科の範囲に治まるものですが、
私は小さいころずいぶんと活発だったものですから、ついには打撲、擦り傷、切り傷、など、
両目のまわりをパンダのようにアザをつけて診てもらいに行ったこともあった。
中学生になると益々活発になってしまい、お岩さんのような原形を想像しがたい顔にまでなって行った。
さすがにその時は万が一ということもあり、紹介状を書いてもらいました。
中学生のころはそれはそれは生意気なもので、社会のなんたるかを知らないままに、
流行のロックと不良漫画にかぶれてしまい、親、先生、大人、学校、社会に反発したものです。
私の耐えない生傷もそんな流行のひとつのようなもので。
かかりつけの先生はそんな流行病さえも診てくれた。
何を言い正すこともなく、若気の至りを察してくれるその先生には、私のロックは必要もなく、
幼稚園児のときと変わらず素直になれた。
きっと先生には、身なりも顔つきも目つきさえも変わっていく少年の、
幼年期から変わらない心だけは、診えていたのだと思うのです。
私の成長をそっと見守っていてくれた人だったと思えるのでした。
そして、その小さなかかりつけの内科から 親の心を知るひとつの出来事があったのを思い出されました。
小学2年生の時でした。 土曜日の午前授業で帰宅途中に、お腹に凄まじい激痛が起きました。
身体を起こすことが出来ず、それでもなんとか友達に支えられ、かがんだまま脂汗を滲ませ帰宅しました。
激痛に悶える私に 父と母は 『 うんこしたか 』
( そういえば してない・・・ )( うんこ出てないだけでこんな激痛なものか!!! )
『 便秘だな 便秘。 』 母。
( 便秘だと? ) 『 なんだ糞詰まりか。 飯食わして 押し出させろ 』 と父。
( こんな状態で飯食えってか!!!!? 違うって!!!! )
母はラーメンを作り 『 お父さん お願いね。 』 出掛けやがった・・・。
ラーメンにしたのは 少しでも食べ易いように気づかったのか、 単に時間がなっかたからかは定かにならない。
父は 『 ところてん方式 』 を唱え ただひたすらに 『 押し出せ!!! 』
と私に気合を入れては テレビを見ているのでした。 大好きな時代劇。
私は激痛に晒されながらも 無理やりにラーメンを飲み込んだ。
しかし ところてん方式 叶わず・・・。 逆ところてんとなり すべて戻しました。
( この家にいたら死んでしまう・・・ ) ( 先生・・・ 助けて・・・ )
いよいよの私の際を見たのか、 いや 遠山の金さんが一件落着させたのを機に、 父が腰を上げた。
いや 重い腹を上げた・・・。 『 先生のとこにいくぞ。 』
( いやいや 最初から そうしてよ・・・ )
『 土曜だから もう終わってるなぁ 』 などとぼやきながら 私をおんぶした。
案の定 診療時間は終了していた。 しかし父は カーテンの閉まったドアの中に向かって叫んだ。
幸い先生はまだ中に居り、 診てもらうこととなったのです。
意識朦朧の中、 ベッドを仕切るカーテンの向こうで 父と先生の問診を聞いた。
『 親バカだと思って聞いてください。 親父が言うのもなんですが
息子は我慢強い子でして・・・
もしかしたら大きい病気かもしれないのですが・・・ 』
全ては聞き取れなかったのですが、 いつもの怒り口調の父とは違う 父親の声でした。
いつも だらしない! 甘えるな! バカ野郎! うるせぇ! 糞して寝ろ!
などと言われていたものでしたから 父にとっての自分とは? と考えていましたので、
父の子を思う姿を知り、 ( 安心した。 おれのこと少しは愛してくれているんだ。 死んでもいいな。 )
などと 幼いながらもバカなことを思ったのでした。
『 便秘でしょうね。 浣腸しましょう。 』
( やば。 死なないの。 ただの便秘かよ。 この後気まずいじゃんか。 )
スッキリしました。 今でもあのスッキリ感を忘れることはありません。 そんな量でしたから・・・。
無事帰宅することになり、病院の玄関口にて、
『 いやいや 靴履かせてくれば良かったなぁ。 慌ててたから忘れちまったなぁ 』
( いいですよ。 ただの便秘でしたから。 裸足で帰れるから。 )
バツの悪い私に父は、 『 ほれ いくぞ。 』 背中を差し向けた。
『 行くときは気付かなかったけど おまえ重いなぁ 』
『 失敗したぁ 』 と何度もぼやきながら ハァハァと息をはずませ父は言った。
『 まぁ いいかぁ これにて一件落着!!!! 』